トピックス
医療をめぐる社会環境
No.17 2008年 11月政府の総合医療費抑制指向が先に立って、病む人のケアが置き去りになっているという声が高まっています。取りやすいところから健康保険料を取るという安易な方向に流れ、また格差の拡大から健康保険料や年金保険料が払えない低所得者が増えて、アメリカのような医療難民状態が日本でも生まれつつあります。
医療難民は低所得と保険料の面からだけではなく、国の医療費削減のために長期の療養やリハビリ期間を削減して、介護システムや自助努力に委ねる政府方針からも発生しているように見えます。転院や介護施設への入所、および自宅療養の手当てもないまま「退院させられる」という事態が多発しているという悲鳴が聞こえます。病院が患者さんの回復状態にかかわり無く、好き好んで退院を迫るのではありません。
個人の医療に対する認識、例えば安易な救急依存→たらいまわし→手遅れが頻発していて、一般市民にも医療秩序の責任の一端があります。はしご受診、大病院への集中、病院待合室の老人社交場化など、社会全体で改める要素もあります。一方、医師の偏在と不足から本当に必要な医療が機能しない事態が発生しています。2004年からはじまった「新医師臨床研修制度」は医師の偏在と不足という大きな問題を生み出しています。研修先の病院選択や大学への引揚げ問題が顕在して来ました。医療においても労働の「3K」が意識されるようになり、「きつい」からと、産科や小児科の医師が少なくなっている傾向が見られます。1970年代には医師の数を増やそうと政府は「一県一医科大学」設置を推進しましたが、1982年には医師数抑制を閣議決定しています。司法試験を容易にして法曹人口を増やそうとすると弁護士会が反対するという動きに似ています。
住まいの近くに家庭医、そして家庭医に紹介してもらえる中核病院(地域総合病院や大学病院)というネットワークが理想的で、その方向になりつつあります。しかしながら、何はともあれ大病院にいくということになりがちです。しかし医師不足から総合病院のない都市があちこちにあります。あっても休診となっている科目が多くなっています。一時間待ち、三分診療となってしまいがちです。事実、処方箋をもらって、薬を受け取り、支払いを済ませるのに半日かかるというのが普通です。家庭医は患者の家族や住まいのことを知りうる立場にあり、親子代々知り合いということもあります。時間外や往診となると家庭医のお世話になるのが一番です。
参考までにアメリカの医療と健康保険について経験したことを記します。
1980年代に出産時の嬰児の障害を産科の医師の過失として訴訟を起す事例が多発し、医師が医療訴訟保険に加入したのですが、余りにも事例が多く、保険料が値上がりして、産科医廃業が頻発しました。日本でも医療訴訟が増えて、医師・病院の説明責任と情報開示が進みました。功罪あい半ばの状況です。
アメリカには全国民をカバーする公的健康保険はありません。低所得者向けのメディケイドと高齢者向け(年金受給者)のメディケア(有料)の二種類があります。ある程度所得があれば民間医療保険(全国民の70%)に入ります。歯科治療を受けるためには別の保険に入らなければなりません。保険が使える病院は加入する保険によって限定されており、どの病院にでも行けるという状態ではありません。
このため、最低限の医療でさえ受けられない市民の層は日本より厚いのです。
保険に加入していても医療費は自分で全額を支払ったのち、保険会社に保険給付の申請をします。実際に医師から受けた治療について、保険会社が過剰診療と判定して支払いを拒否することもあり、個人で闘わなければなりません。
総合病院では家庭医からの紹介を受けた患者でないと受け付けてくれないことがあります。総合病院の医師が、実は、家庭のパートタイムの職場であるというケースもあり、重症入院や高度検査を終えると、自宅療養となり、総合病院で世話になった同じ医師の家庭医としての診療所に通うこともあります。
アメリカでは個人の健康管理は個人の責任で、ということで、市町村から自動的に「健康診断の通知」が来るということはありません。そもそも住民登録制がなく、住民税もない都市があります。州の独立性が高いですから、所得税、消費税などがない州もあります。ごみ収集は個人が民間会社と契約する都市が多くあります。どこに誰が住んでいるということは管理されていない傾向なので、郵便は宛名がなくても、通りの名称と番地だけでも配達してもらえます。日本流の受身の住民サービスということは一切ありません。世界的に見て、日本人ほど公的住民サービスに甘えて、当然と思っている国民はいないでしょう。税金の使われ方と役人の行状、および自分が選んだ政治家を監視するという意識がアメリカよりも低いです。
日本の健康保険システムでも個人で保険料を払えないと国民健康保険に入れないし、扶養家族であった老人も保険料を求められるようになりました。家族の傘の下にいるというまとまりが壊されてしまいました。健康保険の政府「金勘定」のために弱者が切り捨てられる世の中になりつつあります。お金がないと十分な医療を受けられない時代が始まりました。
前掲トピックスNo.16のヘルスケアネットワークは人々が経済状態や通信情報の知識が無くても平等に医療の恩恵にあずかれることを目標とするものですが、公的制度が未熟、デジタル難民、標準化の欠如などがあり、道のりは遠いです。
加えて日本では医療過疎地や、医療情報に恵まれない人々が多く、経済状態により、病気に対する知識に乏しく、医療情報へのアクセス欠如から命を失うこともあり得る実情です。
一方、適切な情報入手が可能で、インフォームドコンセントについての正しい認識、より高度な医療を提供できる医師や病院についての知識を取得できる人々も増えてきた。正しい情報の提供と情報を享受できる機会を増やそうと努力が続けられています。
年金も健康保険も、現役の納税者が高齢者を支えきれないという「口実」で高齢者から保険料を取り立てることになりました。「公平負担」をうたい文句にしていますが、「公平」の名の下に弱者に高負担を強いるのは「保険」の原則ではありません。高齢者だけを区別して別の保険体系にするのは、保険本来の「できるだけ多くの広範囲な加入者を包括して、助け合う」ことに反します。
高齢者は昭和の時代には勤労者として当時の高齢者を支えて保険料を払い、自分の将来も、同様に支えられると信じて年金と保険システムを支えてきましたが、老齢になると、年金が中心の収入減になるのに、もっと多くの介護、健康保険料を払え、年金から天引きだ、給付額は減らされるなど、仕打ちを受けています。社会保障制度のほころびが始まり、ひいては崩壊ということになることを憂えます。太平洋のあちら側の前車の轍を踏んでいます。